富本銭(ふほんせん)とは?
「富本銭」は日本最古の銅貨です。
ウィキペディアより引用
円形に方孔(四角い穴)が開いた形で、「富本」と記されています。
基本情報
発行開始 | 天武12年(683年)? |
直径 | 約24.4mm |
方孔の1辺 | 約6mm |
厚さ | 約1.5mm |
重さ | 平均約4.27g |
富本銭は日本最古の銅貨
「富本銭」は飛鳥時代に流通した日本最古の銅貨とされています。
長らく「和同開珎」が日本最古の貨幣とされてきましたが、平成11年(1999年)1月に奈良県高市郡明日香村の飛鳥池工房遺跡で行われた文化財発掘調査でその通説が覆されることとなりました。しかし、富本銭の流通は専門家の間でも見解が分かれており、実際に流通したかどうかについてはまだ疑問が残っています。
富本銭の出土
富本銭が最初に発見されたのは昭和44年(1969年)、平城京跡からでした。
その後、昭和60年(1985年)に平城京跡から、平成3年(1991年)と平成5年(1993年)にはさらに古い藤原京跡から発見されています。また、平成7年(1995年)には、群馬県藤岡市の上栗須遺跡からも出土しました。
いずれも1枚のみの出土のため、これだけでは流通した貨幣だとは考えにくいものでした。
しかし、平成11年(1999年)1月、飛鳥池工房遺跡の文化財発掘調査では、かけらも含めて34点の富本銭が出土しました。最終的には遺跡全体で300枚ほど見つかりました。
この発掘調査で、銭のまわりにバリ(はみ出し)がついた仕上げ前にものや、ひび割れなどがある不良品、鋳型や鋳棹などの鋳造道具、さらには貨幣鋳造用の炉や窯の跡も発見されました。
これらの出土品を調べた結果、飛鳥池工房遺跡が造幣工場だったことが明らかになりました。
富本銭は本当に流通したのか?
飛鳥池工房遺跡の文化財発掘調査により多くの富本銭が発見されましたが、本格的に流通したかどうかに関しては専門家の間でも見解が分かれています。
それにはいくつかの理由があります。
図柄が描かれている
富本銭には七つの星(七曜)が亀甲型に描かれています。しかし、近代以前の中国や日本では表面に文字以外を描いた流通貨幣はありませんでした。
近世以前の絵柄が描かれていた貨幣は、厭勝銭(えんしょうせん)または絵銭と呼ばれるまじないの道具として使われたものでした。
富本銭が厭勝銭でなかったことを証明する材料はまだ見つかっていません。
天武天皇の詔(みことのり)
日本書紀に「いまより以降、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という天武天皇12年(683年)の詔があります。この中にある「銅銭」は富本銭に当たる可能性が高いと考えられていますが、そうなるとそれ以前に「銀銭」が存在していることになります。
この銀銭が「無文銀銭」のことなのか、「和同開珎の銀銭」のことなのか、もしくは日本書紀の年号が間違っているのか、論争が続いています。
鋳銭司(造幣局)の存在
日本書紀には持統天皇8年(694年)3月に、続日本紀には文武天皇3年(699年)12月に、それぞれ「鋳銭司の設置」という記述があります。(造幣局のこと)
これが富本銭のための設置なのか、和同開珎のための設置なのかが分かっていません。どちらを指すにしても、約10年の空白期間が生まれてしまいます。
その他疑問点
その他にもいくつかの疑問点が残されています。
- 貨幣としての価値がいくらなのか
- 和同開珎とはどのような関係なのか
情報が少ないため、流通を証明・否定する材料が足りていないのが現状です。
今後の研究により、明らかになることが期待されます。